大杉城の歴史研究
大杉城の城史・城主は不明です。各地にあるように村を守る山城ではないかと思われます。それが南北朝時代の戦いの中、中村地区にあった三方城(戦国期に宮垣地区に築城)の、西の守りとして利用されたようです。
南北朝時代の1354年、南朝方の伯耆の山名時氏が足利直冬を擁して京都への進路にあたる但馬での攻防で、三方城には三方忠勝・幕府方石塔頼房配下の湯浅次郎左エ門尉等が立て籠っていましたが、南朝方の播磨守護の赤松則祐の配下安積盛兼に落とされました。その4年後1358年、今度は幕府方が三方城を攻め、幕府方伊達朝綱は八木谷治左ヱ門・木内七郎兵衛尉と共に、三方城戦の後詰めとして大杉城を攻め落としています。これが歴史史書に残る大杉(剣滝山)城です。伊達朝綱が室町幕府に提出した戦功の報告書に、「剣滝山に攻め上がり合戦しました」と 記された報告書がありますが、但馬の歴史家は大杉城としています。武将谷には五輪塔があります。戦いで亡くなった武将たちを大杉の村人が弔ったものと考えます。台座は2基あります。1354年の戦い時にも大杉城戦があったと推測します。
その200年後の戦国期に入ると、大杉城は曲輪・堀切・竪堀・土塁が改修され高城・丸部城が築城され、大屋川の対岸には蔵垣城も築かれている。これらの山城は戦国期後期の造りとされている(養父市城郭辞典)。誰が何を目的として大杉城全域を強化したのか。当時の状況・財力を考察すると、大屋に陣営していた織田信長の家臣羽柴(豊臣)秀吉の弟羽柴秀長配下の藤堂高虎が対毛利氏の西の護りとして築城したと考えられる。当時中国の覇者毛利氏には、京への進軍路として山陽道・山陰道・海から若狭湾上陸の3ルートがありました。但馬の国人達の出兵要請もありました。進軍路が山陰道となり関宮の出合が国境として考えると、狭隘を抜け出た関宮平野が織田軍と毛利軍の激突地になり、八鹿の八木城が織田軍の主城となるでしょう。その時のため前衛の城として、関宮の尾崎地区の八木川の両岸の天王山城・尼が城は戦国期造りの補強がされている。この時両軍にとっての脅威は大屋からの横からの攻撃です。加保坂道と、大杉から吉井に抜ける間道があります。毛利軍の別動隊に大屋の城を取られると織田軍は不利になり、大杉城は重要な城となる。
織田信長の戦略をみると、毛利氏の中国地方制圧として、摂津は伊丹城主荒木村重が支配していたので、丹波を明智光秀に、丹後を細川藤孝に、播磨・但馬の制圧を羽柴秀吉に命じる。秀吉は、黒田官兵衛の調略により御着城主小寺政職・三木城主別所長春が織田方の味方となったため、黒田官兵衛を軍師として西播磨に兵を進め、弟の羽柴秀長に但馬の制圧を託す。
1577年(天正5年)10月、秀長軍は3,200の兵力で但馬に入り、11月には朝来・養父郡を制圧して竹田城に入城し北但馬との戦いに備え、養父から生野峠の街道を整備する。この時藤堂高虎は和田山から竹田までの街道の整備を指揮しています。ただ大屋方面では三方城は制圧したものの、西の国境では小競り合いがあり、西播磨の戦いではでは毛利氏の反撃にあい、毛利氏の調略により三木城主別所長春の謀反もあり苦境に立ち、秀吉は秀長に北但馬への進軍をやめさせ、制圧した南但馬の護りを固めるよう命じている。秀長は兵500を援軍として西播磨に派兵し、高虎に手勢を与え大屋に派兵する。 藤堂高虎は南但馬平定最後の戦いとして、七美郡(旧美方町)との境の大屋に入り、小代城山城ゆかりの尾崎新兵衛(瓜原新左エ門)と戦っていた加保の栃尾祐善の援軍となり、尾崎・小代勢との蔵垣合戦(1578年天正6年)で勝利し大屋を平定する。羽柴秀吉の軍師竹中半兵衛が廃坑状況の明延鉱山の再開発を目指していたことも藤堂高虎の派兵の理由かもしれない。明延鉱山はその後銀鉱脈が発掘される。
藤堂藩の歴史書「宗国史」、これを翻訳した「高山公実録」には尾崎新兵衛の名はありません。瓜原新左エ門の名が記載されています。しかし、これには疑問がわきます。「宗国史」ですが編集にあたり、大屋での高虎の業績が不明のため、当時の加保の庄屋の10代栃尾源左衛門受玄に調査を依頼しています。高虎が大屋を離れ和歌山の猿岡城に移ってから100年後の調査です。栃尾受玄がどのような調査をしたかはわかりませんが、五男の善寅に報告書を持たせ津に向かわせ、善寅は藤堂藩に召し抱えられ後に栃尾易三として600石となっています。栃尾受玄は、兄の子が成人したので家督を譲り分家して先祖の馬場姓を名乗っています。小代勢との戦いの推移をみると疑念が湧いてきます。
瓜原新左エ門ですが、子孫の方が豊岡市に在住されています。言い伝えでは瓜原生まれだったので瓜原姓を名乗ったとのことです。竹田城の戦いに敗れ、八木城下の今滝寺村に落ち延びたそうです。養父郡の戦いの前ですので八木城八木豊信はまだ毛利派です。姫路在住の瓜原さんの話では、生野鉱山の奉行をしていたとのことです。生野鉱山は山名祐豊の配下太田垣氏の支配でしたので奉行職はともかく竹田城主太田垣輝信の家臣として理解できます。
尾崎新兵衛ですが、1557年に伊勢信仰を布教した時の「にしかた日記おおや」に、なかまのおさき新兵衛・おさき与次郎・松谷治郎兵衛の名前の記載があります。中間地区を一帯を支配していた豪族と考えます。他に武士らしき人名はありません。関宮の出合から奥の熊次村は昭和32年に養父郡に編入されています。それまでは美方郡、当時の七美郡です。小代から氷ノ山、横行そして中間・筏地区を勢力圏としていた、小代城山城の田公氏ゆかりの武士と考えています。毛利派と織田派の戦でもあります。
大杉城ですが城郭構造研究から考えると、大杉城の東下の大福寺境内に城主居館が想定されるとのことですが遺跡・伝承等は見つかっていません。生活用水を考えると、館は大福寺境内を下った庄屋跡地でしょうか。前は大屋川が流れ、両側は奥山川と岡谷川、後ろは急峻な山が迫っている。羽柴秀長による但馬平定後、3,300石となった藤堂高虎にとっては館として格好の地となります。3,300石を現在の貨幣価値に換算すると、約2億6千万円ほどです。1649年(慶安2年)の徳川幕府軍役規定によれば、3,000石で56人(騎士2・侍8・槍持ち等48人)となっている。戦国の世、その2倍くらいの家臣がいたでしょう。家臣団の館は木彫展示館・下観音さんの前辺りだろうか。未解明です。又、高城跡の山名は高城と呼ばれます。「高虎の城→高城山」になった可能性もある。1587年(天正15年)、2万石となり紀州粉河に猿岡城を築城し、藤堂家一族が移転していくまでここ大杉が藤堂高虎の処点となった推測しています。 今も残る庄屋跡地、慶安元年(1648年)徳川家光の時代、三方郷宮垣から正垣与惣右衛門が、大杉村の五郎右衛門・二郎右衛門から地株を買い取り入村しています。この地を造成し屋敷を新に建てたとしたら疑問が残ます。昭和20年9月22日の台風により、大屋川が氾濫し庄屋屋敷跡の前の民家・大杉橋・対岸にあった公民館が流失している。屋敷の横を流れる奥山川の氾濫もある危険な場所だ。平成21年の豪雨では高さ3mの両岸の石垣が崩れ修復され、翌22年には上流の山肌ガ崩落して、平成23年から土石流対策として10ヵ所以上の砂防ダム・山肌補強の10年計画の工事が始まっています。徳川幕府となり世の中も安定してきた時代、このような危険な場所をわざわざ造成して、庄屋屋敷を建てたと考えるより、由緒ある屋敷跡を利用したと考えるべきはないか。
城姿ですが、大杉城には石垣はありません。大杉城・高城・丸部城の急斜面は石垣同等の防壁を果たしていたと思えます。又、高城からは大屋平原はもちろん西部方面、毛利氏領若桜道からの間道が通る、筏・中間地区、若杉峠の山並みが展望できます。大杉城・丸部城・高城が劣勢になれば、一の段に引いて敵を討つ備えがあります。一の段(標高766m)頂上付近は、自然か人工かは判りませんが3段の層になっています。下から見える見かけの頂上を過ぎると、10m程の岩場があり登りきると平坦地となりその奥に2等三角点があります。頂上からは緩やかな尾根が黒山に続いています。黒山の稜線には、氷ノ山からの地下水脈があるのでしょうか、湿地帯が点在し夏でも枯れることはありません。一の段の山全体が城なのです。大杉城は実に懐の深い山城です。
大杉城への道
登山口 登山道
大杉城曲跡 大杉城跡
大杉城堀切跡 高城跡(後方は一の段)
一の段 丸部城跡
丸部城麓武将谷の五輪塔 五輪塔(南北朝時代のものか)
登山道はありませんが比較的明るい尾根を登るルートです。
ところどころに赤色の目印をつけています。大杉城跡・高城跡・丸部城跡・一の段頂上には
標識を設置しています。かなり急勾配のコースです。樹木のため展望はさほど良くはありま
せんが、一の段頂上からは氷ノ山も展望できます。コースタイムは参考です。
(大屋山遊会)
藤堂高虎