藤堂高虎 (大屋・但馬)
大杉城物語
天正9年(1581年)羽柴筑前守秀吉の弟羽柴秀長の命により,七美・二方郡を平定後銃将(3,300石)として大屋に陣営して、因幡方面の毛利軍を牽制していた。高虎26才、栃尾加賀守祐善の媒酌で元丹後国守一色修理大夫の娘久芳(正室)と祝言。近江の藤堂村から両親・一族を呼びよせ、藤堂家を世に興し新婚生活を過ごしている。数少ない秀長の直属の重臣だ、100〜150人程の家臣はいたであろう。
秀長は竹田城に、高虎は
大屋のどこかの城に・・・。この時代、秀長配下に但馬衆の軍団が誕生した。
生誕地 滋賀県甲良町在士 高虎公公園
大杉城 (
南北朝時代に築かれ、戦国時代に三か城となった)
【藤堂高虎の年表】
弘治 2年
1556年 |
近江犬上郡藤堂村に生まれる( 現 甲良町大字在士) 幼名与吉 |
永禄 12年
1569年 |
織田信長の命により、木下藤吉郎は2万の軍勢で但馬侵攻。生野城他16の城を落とし、
出石城 (比隅山城)山名祐豊を攻略。生野銀山を支配下に置く
|
元亀 元年
1570年 |
浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍の姉川の戦いに浅井長政の足軽として初陣。
藤堂与右衛門(与吉)15才
山名祐豊、織田信長に許され出石此隅山城へ |
1571年
〜
1575年 |
藤堂与右衛門(高虎) 阿閑貞征→磯野員昌→織田信澄に仕え後出奔 |
天正2年
1574年 |
山名 祐豊、有子山城築城
|
天正3年
1575年 |
羽柴秀吉(木下藤吉郎)、長浜城築城
吉川元春・山名 祐豊芸但和睦成立
|
天正 4年
1576年 |
藤堂高虎(藤堂与右衛門)300石で羽柴秀長(秀吉の義弟)に仕官する。高虎21才 |
5年
1577年
|
羽柴秀吉播磨平定に着手。秀長・高虎は但馬に出陣。(10月)
明智光秀・細川藤孝丹波・丹後に出陣 (10月)
秀長、朝来・養父の2郡を平定し竹田城に入城。(11月)
秀長、養父〜神崎粟賀間の街道普請のかかる。(高虎割符 竹田〜和田山間) (11月)
秀吉、上月城を攻略後尼子勝久入城 (12月) |
6年
1578年 |
竹田城にて山名祐豊と和議成立 (1月)
三木城主,別所長春謀反 (2月)
毛利勢,上月城を包囲 (4月)
高虎、加保村の栃尾加賀守祐善の協力を得て、大屋の庄を平定。(4月)
秀吉、上月城救援 (5月)、秀長軍より兵500を派兵
秀吉、上月城撤退 (6月)、竹田城に逗留
秀吉、三木城を包囲 (8月)
秀長、羽柴軍の三木城攻撃に参戦 (9月)
高虎、恩賞の場、長浜城にて秀吉より380石を知行される。
伊丹城主荒木村重謀反 (10月) |
7年
1579年 |
奥丹波勢、反織田で挙兵 (5月)
秀長・前野・高虎等兵4,000にて夜久野峠を越えて丹波に援軍(5月)、福知山の横山
城等を攻落
明智光秀・細川藤孝軍丹波・丹後を平定する (7月)
伊丹城陥落 (11月) |
8年
1580年
|
三木城陥落(1月)
秀吉、播磨へ、秀長・高虎は但馬へ帰陣。
秀長、出石の有子山城(山名祐豊)・気多・美含・城崎郡を攻略後、高虎に命じ七美・二方
郡を制圧し但馬を平定。
この功績により、秀長は但馬7郡(10万5千石)の領主、高虎は大屋の庄で 3,000石
の加増で銃将となる。
第一次鳥取城(山名豊国)攻め。 (6月)
羽柴秀吉若狭街道、秀長・高虎山陰街道で進軍し攻略。(9月) |
9年
1581年 |
高虎26才、祐善の媒酌により、一色久芳(正室)と祝言。
屋敷を構え藤堂村より家族・一族を大屋に迎える。
第2次鳥取城(吉川経家)攻め。 (7月)
鳥取城攻略・因幡征圧 (10月) |
10年
1582年 |
羽柴軍備中高松城へ。 (4月)
織田信長本能寺で死去 (6月)
山崎の合戦で明智光秀に勝利する。 (6月) |
11年
1583年 |
伊勢の滝川一益・北の庄の柴田勝家との合戦に勝利 (4月)
秀吉は大坂へ、秀長は播磨・但馬を領有し姫路城城主となる。
高虎、4千600石となる。 |
13年
1585年 |
秀長、紀州を平定し、紀伊国・和泉国64万石の領主となる。
高虎、1万石となる。 |
15年
1587年 |
高虎、九州遠征の功により2万石となる。
粉河を領地に猿岡城を築き城持大名となる。
紀州粉河に居館を構えて大屋から藤堂一族を迎える。 |
天正16年
1588年
|
丹羽長秀の三男、高吉を養子にする |
18年
1590年 |
小田原遠征。秀長病床のため名代として出陣する。 |
19年
1591年 |
秀長死去。養子秀保が襲封し、若年のため後見役となる。 |
文禄元年
1592年 |
朝鮮出兵(文禄の役) 秀保の名代として出陣 |
4年
1595年 |
関白豊臣秀次切腹。秀保急逝。紀州豊臣家断絶し武士を捨て高野山に出家。
高虎40才
秀吉の配下となり、宇和島7万石の領主となる |
慶長3年
1598年 |
豊臣秀吉死去 |
4年
1599年 |
香住林甫城主長越前守連久の娘松(松寿夫人)を側室とする。 高虎 44才 |
5年
1600年 |
関ケ原合戦で東軍に属し勝利
徳川家康に仕え今治城主で20万石となる
|
6年
1601年 |
2代目藩主高次誕生 高虎 47才 |
13年
1608年
|
伊賀上野・津、22万石となる 53才 |
元和2年
1616年
|
津城にて久芳夫人逝去
徳川家康死去 |
3年
1617年 |
伊勢・津藩32万石となる。 高虎 62才 |
寛永 7年
1630年 |
藤堂高虎逝去。江戸の上野寒松院に葬られる。75才 |
藤堂高虎の歩み
大屋の庄(1578年〜1586年) 猿岡城跡(1587年〜1595年)
宇和島城(1595年〜1600年) 今治城(1600年〜1608年)
伊賀上野城跡 * 津城跡(1608年〜1630年)
養父市大屋町 大屋あゆ公園
「藤堂高虎公ゆかりの郷」の木碑、朽ちてきたので近々建替え (平成20年)
(藤堂高虎公ゆかりの郷委員会)
ここは高虎が300石から3,300石に出世し・結婚をした地、木碑に触ると出世
と縁結びの御利益があるとの噂もあります。
平成23年2月23日 「藤堂高虎公ゆかりの郷」の碑除幕式
(有志による寄付にて建立)
【藤堂高虎歴史推測】
但馬における藤堂高虎の資料は乏しく、解明されず謎の面が多くあります。そこで、
各地の書物・伝承等の事柄をばらばらにして、時の流れに沿って独自に推測しました。
いわゆる状況証拠を積み上げたものです。憶測・推理の面が多分にあります。
ご意見等をいただければと思います。
2022.2.27 更新
その1
加保村と高虎
養父市大屋町加保区に豊臣秀吉が休憩し馬を繋いだ松の木があるとの伝説がある。馬を繋いだのでその家は馬場」姓に改姓したとの伝承だ。改正前の名前は解らない。この伝承には違和感がある。伝えられる間に何かが消え、何かが増えてしまったような気がする。
が、このことからを始める・・・・・・
永禄12年(1569年)木下藤吉郎(豊臣秀吉)の但馬侵攻の折、秀吉と言うより、秀吉の名代で配下の者が、大屋の庄明延鉱山【奈良時代に開山、当時は鉱脈が掘りつくされ閉山状態であった・・・大屋町史】の調査に、加保村の当時の有力者白岩氏を道案内人として来たと考えられる。1557年の伊勢神宮御師の有力檀家回りの、「にしかた日記、おおや」には「かふ(加保)の志らいわ(白岩)殿」とある。他に名はない。才下正義氏著「近世の加保村」には、「三十番神社の祭神台座裏銘に白岩九兵衛内万の名がある・・・」と記述されている。その後加保村の歴史から白岩氏の記録がないところから改姓したものだろうか。白岩氏・、馬場氏から当時の権力者の栃尾氏への権力の移行がわからない。大屋市民センター図書室在書の、馬場知氏発行「馬場家の由来」を見ると栃尾家由来書で、【初祖馬場八郎(丹波)、二代安芸藝守、夏梅村栃尾に移住し外戚の姓を冒し栃尾と改姓(天文年間1532〜1555年)、三代栃尾加賀守左衛門尉、四代栃尾源左衛門善次(加賀守名祐善)】とある。永禄年間(1558〜1570年)に夏梅から加保村に館を築いたとの記述がある。夏梅は三方の庄で、大屋の庄の白岩氏と抗争があったのだろうか。由来書には戦い等の記載がない。
そこで、「にしかた日記」を深読みしする・・・・・・・白岩氏とはあるが名がない。何故か。後述するが中間地区には尾崎新兵衛他2名の姓名記載がある。又、「蔵垣の政所殿」の記載があるが姓名がない。政所とはいえ責任者のいない下級官士だけの詰所だったのではないか。だとすれば、白岩屋敷も当主が不在だったのではないだろうか。当時いたのは白岩家の番頭あるいは傭兵。誰か、栃尾加賀守左衛門尉ではどうだろう。伊勢神宮御師はみやげ物を留守居役に渡し、白岩殿と記載したのではないか。
関宮の吉井区には白岩城跡がある。加保坂峠を越えて加保区を支配していたと推測できる。吉井の白岩家に伝わる系図によると竹田城主・太田垣輝信の末裔で、天正5年の竹田城の戦で羽柴秀長に敗れて、孫の新兵衛が吉井村白岩に住んだとある。新兵衛の子の九右衛門は帰農し、地名をとって白岩とし白岩家の初代となったと記されている。「にしかた日記」が記された20年後のことだ。羽柴秀長が竹田城戦後に養父郡に侵攻したのは数日後のことだ。落ちて行った吉井村でしかも少人数だろう。
白岩城を築城した白岩氏とは別人となる。白岩城を築城した白岩氏は衰退し、加保の屋敷はやがて栃尾加賀守左衛門尉の屋敷となったと推測できないだろうか。白岩氏・栃尾氏そして馬場氏、加保の歴史は複雑に絡んでいる。
藤堂高虎が大屋を離れた100年後、寛延四年(1751年)に完成した「宗国史(百巻をこえる大部の編集書とされる)」の但馬・大屋の資料を求められた、当時の加保村の庄屋、第10代栃尾受玄(後に成人した兄の子に家督を譲り分家して馬場姓を名のる)は報告書を五男善寅(栃尾易三)に託した。善寅は報告書を津藩藤堂家へ持参して召し抱えられている。元禄初期とされている。
100年前の事象を栃尾受玄はどのような方法で調査したのだろう。但馬各地に出没する秀吉・小代戦を見ると、詳しすぎる馬場家の家系図と合わせて疑念がわいてくる。この「宗国史」が「高山公實禄」となる。真偽はいずれにしても、木下藤吉郎の但馬侵攻時が、大屋の庄が戦国時代の荒波に関わる初めになったと推測する。
元に戻る、永禄12年(1569年)大屋に来た秀吉配下の者とは誰か。但馬を北進する秀吉とは別行動で大屋の庄に入り、短い時間で明延鉱山をつぶさに調査し、信頼できる報告をできる者。大胆に推測すれば武功夜話の一節から、朝来・養父郡の鉱山を注目していた竹中半兵衛だろうか。明延と播州境の富土野峠で豊臣秀吉が和歌を詠んだとの伝承があるが、これは秀吉の配下(竹中半兵衛?)が、明延鉱山の全容を見るために、富土野峠から東側に少し登った小高いところから谷沿いに眺めた事が今に伝わったとは考えられないだろうか。生野鉱山はこの後織田家の管轄となり、明延鉱山はその後16世紀中期以後(1550年以降)復活されたとされる。銀鉱脈の発見と精錬技術の取得だった。
天正5年(1577年)10月に、羽柴秀長(羽柴秀吉の弟)を総大将とした織田軍が再び朝来・養父郡に侵攻し、竹田城を本拠地とした。しかし、制圧されたといえ毛利氏の影響の強い養父郡西部(七美郡南部)では戦いが続いていた。大屋の庄だそこには閉山したとはいえ明延鉱山がある。これを重要視した秀長は、藤堂高虎に鉄砲隊を配備して大屋に派兵した。大屋に来た高虎は味方の加保村の栃尾祐善の屋敷に入り毛利方と対峙することになる。羽柴秀長軍が三木城に出陣したのが天正6年9月となると、天正6年の春だろうか、蔵垣合戦となっていく。
栃尾家過去帳「高虎公御婚礼文書」によれば、栃尾屋敷に2年間寄宿し、天正8年(1580年)全但馬制圧後の翌年、美含郡香住中野村の久芳と栃尾祐善の媒酌で祝言を挙げている。その折藤堂村(滋賀県甲良町在士)から両親一族を呼び寄せている。300万から3300石となった高虎のもとには数十名の配下となる兵士が来ただろう。天正15年(1587年)、紀州粉河の猿岡城主となるまで大屋の庄が処点となった。とはいえ当時の武将と同様、戦の合間に家族のいる大屋に在住するくらいだったろう。
大屋の庄の平定
前述したが、永禄12年(1569年)8月1日
、織田信長の命により、木下藤吉郎は但馬に侵攻し竹田城(太田垣朝延)・出石此隅山城(山名祐豊)・宵田城(垣屋光成)を攻略している。諸説あるが、ネット上の【天下統一期年譜】をみると、元亀元年(1570年)の記述に丹波の波多野右衛門・ 赤井忠家が信長に臣下の礼を尽くしていたことから想像してみると、京都丹波口から丹波水上郡を抜け遠坂峠を越して粟鹿・梁瀬へと向かい
(東河村の道路史から推測)、支隊は生野方面へ、本隊は八木城主八木豊信に書状を持って牽制し、和田山町高瀬で円山川を渡り、糸井川沿いに北上し、峠を越えて、直に但馬の名主山名氏の出石城に侵攻したと思われる。
【朝来市和田山町林垣村の古文書(宝暦5年3月(1755年))には、東北・北陸の米を下関を迂回していたが、冬の季節風をさけるため、豊岡市津居山港から円山川を遡上し、朝来市山口まで高瀬舟で搬送し、牛にのせて生野峠を越え、市川を下って姫路に達し瀬戸内を船で大坂まで搬送する計画の取り決め証文が伝わっているという。糸井川の河口付近まで、高瀬舟より少し大きな船で搬送し、林垣村の対岸の高瀬地区に船泊があり、物資の積み替えしたのでは】と、寺内ざんざか踊りのHPに載っている。この辺りから浅瀬になり、2万の大軍が渡河するには妥当な地点となる。
山名祐豊は大きな抵抗することなく降伏した。2万の軍勢で10日間で18の城を落としたとされる。同年、織田信長は8月20日に伊勢に出馬している。26日には阿坂の城(松坂市)を木下藤吉郎が先陣として攻めている。10日間はともかく、織田信長から木下藤吉郎に与えられた時間は少なかったと思われる。中国の覇者毛利氏に追われた尼子氏を、毛利氏の勢力拡大で但馬への影響を危惧して尼子氏を援助する山名祐豊への対抗策としての、毛利氏の要請とされるが、但馬征圧が目的ではなく、生野銀山の支配と、やがて戦火を交えるであろう毛利氏への足がかりとして織田氏の存在を但馬に誇示したものだろか。
木下藤吉郎が退去した後、但馬の城主は領土を安堵されている。山名祐豊は翌年5月に許されて有子山城を築き城主となっている。大田垣輝延・八木豊信・垣屋播磨守・田結庄左馬助は、山名祐豊への臣従を信長に命じられている。後述するが、天正5年(1577年)羽柴秀長(羽柴秀吉(木下藤吉郎)の弟)が但馬の征圧で侵攻した兵力はわずか3,200だ。それと比べてみると織田信長の戦略が垣間見えてくる。せいぜい4〜500人程の兵力の戦の世界に2万の軍勢が鉄砲という新兵器を備え、突然正に怒涛のごとく侵入してきた。織田氏の勢力の強大さに但馬の城主は驚愕し、戦意さえ失っただろう。その結果但馬内は密議・謀議の中、織田派・毛利派が混在することとなり、戦国の世の荒波にさらされることとなった。
前述した天正5年(1577年)10月、羽柴秀長は秀吉の命により、前野長康・生駒親正・宮部継潤・宮田光次・青木一矩・堀尾吉晴・藤堂高虎・木村重茲他、総勢3,200人にて但馬制圧を開始する。播但境真弓から生野へ侵入し、山口の岩洲城を落とし、太田垣輝延の竹田城を攻落し朝来郡を制圧した。続いて養父郡の朝倉城・八木城・三方城・坂本城・宿南城を攻略し、20日程でほぼ制圧した。その後各城に配下の武将をつけ北但馬の毛利勢と冬に備えた。秀長の統治のもと、朝来・養父二郡の国侍衆、3,000の兵が竹田城の秀長の旗下に加わったと「武功夜話」にある。秀長軍は6,500の兵力となったことになる。その頃の大屋の庄では、毛利派・中間の尾崎新兵衛の率いる勢力と栃尾祐善(栃尾源左衛門善次【加賀守名祐善】率いる織田勢の勢力が拮抗していた。中間の豪族尾崎新兵衛、「高山公實禄」等では瓜原新左衛門との記述があるが、瓜原新左衛門には疑問がある。
前述したが、弘治元年(1557年)伊勢信仰を布教した御師が、有力檀家に持参した土産物を記載した人別帳、「但馬にしたかた日記おおや」に「なかま(中間)をさき新兵衛・をさき与次郎・松谷二郎兵衛」の人物の記載がある.中間村一帯を支配する豪族と思われる。加保区には白岩氏の名がある。蔵垣区・筏区に苗字のある人物はいない。加保区の隣の大杉区(小字瓜原を含む)も寺名の記載だけで、他地区においても苗字のある人物は見当たらない。後述するが、加保区には小代勢の子孫が現存し、蔵垣合戦で瓜原の川下に、4人の小代兵が息絶えた
よったり塚の伝承があるが瓜原新左衛門の伝承はない。新左衛門と新兵衛? これらのことから尾崎新兵衛と推測する。又、加保区と瓜原の距離は1.5km程であまりにも近すぎる。中間とは5km程で西谷渓谷を地理的に見ても、豪族の支配範囲として考えられる距離と推測する。
昭和三十年の昭和の大合併で大屋谷4ケ村の合併までは大屋村・西谷村とは文化・生活圏が分かれていた。加保・大杉は大屋村、中間は西谷村だ。南北朝の時代は大屋村ではなく西谷村の蔵垣に大屋の庄の中心たる政所があった。西向きの川上・峠越えの交流が盛んであったのではと思われる。地理的に見ても、中間であれば横行砦も、小代地区との山越えの付き合いも想像ができる。昭和31年道路の整備により峠越えのルートが薄れ、生活圏が変わり、美方郡熊次村が養父郡に編入されている。熊次村の隣が大屋だ。当時の七美郡(美方郡)の田公氏領が氷ノ山の山麓に沿って大屋谷まで伸びていたとすれば、尾崎新兵衛は小代谷ゆかりの武士とも推測できる。田公氏が大屋谷から富土野峠のその先、旧敵の播磨の赤松氏領へ触手を伸ばそうとしていたとも推測できないこともない。
では、「高山公実録」に記述されている瓜原新左衛門は実在したのだろうか。豊岡市に在住の瓜原さんの家の伝承によると、「瓜原の先祖は大屋の武士だったが、豊臣秀吉に滅ぼされて、落ち武者になって八木城の近くの今滝寺村に住むようになった。瓜原村出身だったので瓜原姓になった。」又、 姫路の瓜原さんからの話として、「瓜原の先祖は生野銀山の奉行をしていた・・・」の情報があるという。お二人の家の伝承から推測してみる。奉行職は別としても生野銀山の実権を握っていた竹田城主太田垣氏の配下にあれば生野銀山にいたとは考えられる。天正5年の羽柴秀長による但馬侵攻の朝来郡の竹田城攻撃で、「太田垣土佐守輝信の二男同姓権兵衛信喬、舎弟治兵衛宗喬天正5年5月小代谷に落ちてきた・・・・」と美方町史にある。5月の記述は疑問だが、1580年(天正8年)の城山城戦にはその名が出てくる。毛利派の養父郡の八木氏を頼った者もいただろう。秀長軍が朝来郡から養父郡へ侵攻してくると、八木城主八木豊信は毛利氏の援軍を期待せず籠城・和睦の道を選んだ。竹田城の落ち武者瓜原一族も従っただろう。竹田城での奮戦が後世に名を残し、瓜原姓であることで竹田城戦と蔵垣合戦とが間違って伝えられたか。あるいは瓜原新左衛門は栃尾祐善の配下で反旗を翻したか。又は、毛利派の尾崎新兵衛を頼ったか。しかし、蔵垣合戦は八木城戦後だ。蔵垣合戦の後で、秀吉配下となった八木城に落ちることは考えにくい。栃尾祐善に反旗を翻したのが、藤堂家が粉河へ移住した天正15年以降としたらどうだろう。後に蔵垣合戦と同時期と伝承されたとしたら。今滝寺村の件、生野銀山の役人だったという伝承が成り立ちにくい。現、瓜原に住む私にとって、瓜原氏の伝承に興味が湧く。瓜原さんの祖父は大正時代に今滝寺村から豊岡市に移住したとのことだ。
元に戻る、このような状況を打開すべく栃尾祐善は竹田城の秀長に援軍を求めた。
竹田城跡
その頃の竹田城では、天正6年3月に秀長のもとを竹中半兵衛が訪れている。三木城主別所長春の謀反により秀吉は窮地に立っていた。毛利勢により尼子勝久・山中鹿之助の守る上月城は包囲され、石山本願寺との戦闘もいまだ続き、毛利方による播州国侍への調略工作もあり但馬への波及も恐れていた。同年5月、秀長は上月城への援軍として宮部継潤・宮田光次・木村重茲を派兵し、藤堂高虎を鉄砲隊と共に大屋の庄へ派兵した。大屋の庄の戦略的地理のためか、明延鉱山の再採掘を意図していたのだろうか、武功夜話には、【・・但州朝来・養父郡内は白銀、黄金の山あり、これを取抱え安土の宮笥成さば如何なる急変出来候も御勘気等を除く一助となすもの急がずばならじ・・(竹中半兵衛)】とある。竹中半兵衛が画期的な方法で調査・試掘を目指していたなら。それは、極秘中の極秘毛利方に感知されないように、秀吉・秀長・高虎等、ごく一部の指図で進められていただろう。
栃尾祐善の勢力に高虎が加わったことで戦況は一変し、尾崎軍は次第に形成が不利になり横行村落(平家の隠れ里)に下がり砦を構えて抵抗、そして毛利派の田公氏に援軍を求めた。
小代谷の城山城城主田公氏は但馬山名氏の麾下として七美郡・二方郡を治めていた。山名政豊は備後の嫡子俊豊と謀り、赤松氏領の播磨・備前に侵攻する。しかし、細川氏の援助を受けた赤松正則の反撃に敗退した。総退却を巡り山名政豊と側近の田公豊職は他の但馬国衆と敵対し、政豊の嫡子俊豊の台頭と共に、敗戦の責を問われた田公豊職は山名氏での権力の座を追われ、嫡子新左エ門の築いた木崎城を捨て領地の七美郡に帰郷した。この機に乗じた太田垣俊朝は、山名氏の名のもとに七美郡に小代地侍連合を構築し,山本八郎兵衛に神水名を給付(加保区山本家所蔵の書状))して七美郡を支配していく。しかし、永禄12年(1569年)木下藤吉郎の但馬侵攻により事態が一変し、俊朝の子太田垣輝延は退き、再び田公氏の支配となる。援軍を求められた田公氏は、山本右兵衛等太田垣党の武将を横行砦に派兵した。山陰道は関宮出合付近が織田・毛利の国境のため、織田方に発見されにくい峠超え、山越えをして横行砦に入ったであろう。
横行村落は西谷渓谷の奥まったところにある。山間を抜け中間村落を通り大屋平原への出口が筏地区(
日本の滝100選の天滝で知られている)で、出たところが蔵垣地区だ。その出口は山と山の間が50m程内大屋川が9割を占める。大雨ごとに川筋が変わる大屋川に沿って間道があるといって良い。この峡谷を抜け出た蔵垣の中央より少し東よりのところに、蔵垣から丸部城に渡る橋があった。対岸の丸部城に通う橋として作られた。南北朝時代は蔵垣に政所があり大屋の庄(加保・市場・桑原・山路・笠谷・大杉・蔵垣・筏・中間・横行・若杉・宮本・門野・須西・和田・明延)を治め大屋の中心だった。大雨ごとによく流されるので丸太を組み合わせただけの橋が残っていた。
蔵垣合戦を仮想再現してみる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
高山公実録に記述あるが、高虎が決戦のために横行砦の偵察に来て、砦の兵に見つかり名乗りを上げて戦ったのは、小代の援軍のきた後だったのか。。高虎は驚いただろう。山賊まがいの大屋の兵と違い武具の整った新しい兵が多数いたのだから。思わぬ敵に高虎は必死の思いで逃げ、その後を毛利派の尾崎・小代勢が追討する。やがて高虎は栃尾館にたどり着き、尾崎勢が栃尾館を包囲した。横行から加保まで10キロ程ある。深追いしすぎの感はあるが、砦の中を見られしかもそれが藤堂高虎だったためか。しかし、両軍共突然ふって沸いた戦闘だ。戦略も戦術も何もない。防御陣地を攻めるには相手の2〜3倍の兵力がいる。尾崎勢にそれだけの人数がいたか。高虎側にしても、新手の兵の人数は見当もつかない。両者決着をつけず尾崎勢は引き下がった。その夜、高虎・祐善の膝を突きあせての寝ずの評定の結果、2日後、横行砦への総掛りの攻撃が決まった。加保から蔵垣までは平地帯だが、ここから先は急峻な山が迫る。一番の難所は蔵垣村と筏村の間の峡谷だ。
周辺図
一方尾崎勢は、栃尾館を包囲して引き下がった思いが残っていた。一気に決戦すべきだったとの思いだ。意気は盛んだ。その時、偵察の兵より栃尾館の様子が報告された。人数は350名程(栃尾祐善100、高虎の手勢50、秀長配下の兵200と推定)出陣の準備をしているという。決戦の場所はどこか、机上を前に軍儀が続いた。「筏の峡谷で待ち伏せして討ち、横行砦に誘い込むべし」と小代大膳。小代勢の大将の意。「筏の峡谷は敵も用心する見破られる。砦の防備も、横行村落の入り口の狭隘に木柵を組み合わせただけで尾根から鉄砲をしかけられると打つ手がない」、と尾崎新兵衛。人数はこちらが少ない。しかも、織田勢には鉄砲がある。川を筏で下って後方に出る策、山を迂回して後方に出る策が出たが、高虎勢は出陣の準備をしている、どちらにしても時間がない。少し無謀だが蔵垣の平地での合戦が決まった。砦の兵全ての出陣だ。生きるか死ぬか、雌雄を決する総力戦だ。高虎勢は、渓谷前の蔵垣までは油断をして進軍してくるだろう。ここで決戦を挑む。正面決戦を避け、丸部城に渡る橋とその反対側の山腹の、清水川の谷の森に忍び織田勢をやりすごし、鉄砲を撃つ間を与えず一気に両翼後方から攻撃をかける策だ。夜陰にまぎれての布陣となった。
天正6年朝霧の中、蔵垣合戦が始まった。蔵垣まで来た高虎が筏の渓谷に斥候の兵を出し進軍を止めた時だった。両翼後面の川と山からときの声が上がり毛利勢が突っ込んできた。不意を突かれた鉄砲隊は味方をはさんでの敵勢のためなすすべもなく、織田勢は陣容を乱され両軍入り乱れての合戦となった。突き出す槍に騎乗の高虎も落馬するほど不利であったが、高虎は6尺2寸(190cm)の大男だ、尾崎勢を討ち倒す姿は子供の中の大人だ。刀一振りで2〜3人を倒す。中国三国志の関羽・張飛と並ぶ豪傑だ。敵にとっては脅威。織田勢にとっては意気・気勢が上がる。徐々に体勢をもちなをして押し気味となった。やがて一人の兵が逃げた。尾崎新兵衛が叫んだ「逃げるなぁ、戦えぇ」、それが合図だった。尾崎勢は一気に崩れた。小代大膳・尾崎新兵衛等主だった者は討ち取られ毛利勢は壊滅し、大屋の庄の平定となった。・・・・・・・・・・・・・・・
戦場となった蔵垣の野に、後年小代勢のために「がんどう塚」の碑が建てられている。瓜原の川下までのがれた四名の武士が果てた大石はよったり塚とされた。このときの小代勢の子孫とされる山本家が加保区に現存する。系図によれば山本右兵衛の子孫で太田垣輝延の感状(山本家所蔵)が残っている。山名祐豊が鳥取城・武田高信を攻撃した永禄7年(1564年)鳥取表の戦だだろう。天正8年の但馬北部侵攻、小代谷の城山城戦にも小代大膳の名がてくる。【高虎軍に降伏したが許され、その後山名豊国に仕え、その子七郎左衛門は代官職を勤めた】との記述が美方町史にある。藤堂高虎の大屋での事象には、高虎が小代城山城を攻めて敗走して栃尾館に逃げ込んだ、との定説があるが疑問を感じて推理した。
羽柴秀長が但馬に侵攻したのが天正5年10月、制圧と施政と道普請【養父より播州境神東郡栗加まで、うち朝来郡竹田から和田山まで、二十六町間は高虎割符・・・・武功夜話】に11月一杯はかかったであろう。11月には加藤作内が、北但馬侵攻を禁じて朝来・養父2郡の堅守を命じる秀吉の書状をもって竹田城に来ている。竹中半兵衛も京に向かう途中、播州での秀吉の苦境の情報を伝えに竹田城に来ている。冬季の12月〜翌年3月までは豪雪の季節で動きにくい。翌6年1月末には毛利派の調略により三木城の別所長春の謀反が明白になっている。秀長は朝来・養父の2郡の兵糧・防備強化を図って北但馬の毛利派勢力に対処していたはずだ。三木城戦で但馬を離れる9月まで、七美郡を攻めて戦線を拡大することは考えにくい。高虎独断では相手が大きすぎる。そこで、大屋の戦い(天正6年)と小代の戦い(天正8年)とに分離して考察した。
蔵垣古戦場跡 がんどう塚
古戦場跡とがんどう塚の碑(蔵垣)。よったり(四人)塚(大石)は、施設の建築により埋設?・撤去?
されたとの話があるが所在は不明だ。
但馬の城跡
小代一揆
天正6年(1578年)9月
羽柴軍の三木城攻撃のため、秀長は・宮部維潤・青木勘兵衛尉・加藤作内等、兵3900人を朝来・養父郡の押さえとして(三木城籠城戦の交代用兵として)残し、前野長康・生駒親正・藤堂高虎・木村重茲等、兵1200人の陣容で竹田城から播磨に出陣した。
天正6年(1578年)10月、毛利氏の調略により伊丹城の荒木村重が謀反、
翌7年5月 奥丹波の鬼ガ城(赤井忠家)・黒井城(赤井直正)・綾部城(江田兵庫頭)・福知山城(小野縫之助)・天田郡の地侍等2,000兵が但馬境に進出した。これに対して、秀吉の命を受けた秀長は、前野長康・藤堂高虎・青木勘兵衛尉・加藤作内・杉七左衛門尉・梁田鬼九郎他総勢4,000有余で、夜久野峠を超えて福知山・綾部・氷上郡へ侵攻、攻落した。その後京口から丹波に攻め上がった明智光秀軍と合流して征圧した各城を引き渡し帰但した。
天正8年1月 三木城陥落後、秀長は但馬平定を目指した。秀長軍6,400人(羽柴秀長-3500・前野長康800・宮部維潤-500・堀尾吉晴-130・藤堂高虎-150・山内一豊-90・青木一矩他在但兵1300・)・新たに味方する但馬兵1500人を糾合し、永禄12年秀吉が進軍した糸井川をさかのぼり、毛利氏に寝返った山名氏の出石有子山城を攻めた。城主、山名氏政は逃走し祐豊は降伏した。しかし垣屋豊続を総大将に気多・城崎・美含郡の兵1500余りが 水生山城で陣を構えた。水尾・宵田・楽前城と激戦が続いたが秀長軍の猛攻に降参した。宵田表の戦では高虎・居相孫作・栃尾祐善の縦横無尽の働きが、武功夜話に記されている。
秀長は有子山城に入城し、その後残敵討伐で一隊は城崎郡へ、一隊は美含郡方面から七美郡へ、又一隊は、藤堂高虎を総大将に、
宮部維潤・堀尾吉晴・山内一豊・糾合した但馬衆が山陰道沿いに七美・二方郡の制圧に向かった。但馬8郡の内6郡を征圧し、残り田公氏の領地の情勢を把握した秀長が、高虎に目に見える手柄をたてさせるべく総大将(美方町史では秀吉の陣代と記載)として派兵させたのだろうか。初戦の有子山城戦では、【・・・出石城攻略の武将は藤堂高虎と伝・・・】と、荒井季雄氏著「郷土史 出石」に記載されている。北但馬戦での初戦と最終戦は高虎が指揮を執っていたことになる。高虎を信頼する秀長の想いが推し量れる。秀長の読みどおり、黒野(支城)・城山(本城)の城主田公氏は戦わずして鳥取城主山名豊国を頼り逃走した。
しかし、【地元郷士小代大膳・太田垣某・朝倉某・山本某・中村某・富安某・二方郡から芦屋城主塩谷冶左衛門尉(周防守)等、総勢92名が小代谷城山城に立て篭もって、城壁から大木・岩、糞尿まで落として抵抗した・・・】美方町史より。楠木正成の河内の戦を連想する。温泉町史では、【宮部善祥坊の攻撃に、芦屋城主塩谷(治)周防守はいちはやく逃れて鳥取の山名豊国を頼った】との記述もある。同じ「塩治(谷)」なのだが別人かどうかわからない。強大な織田軍に無謀と思われる戦、なにが彼らをそこまで動かしたのだろうか。
美方町史の小代の歴史には【・・・一戦に及ばず城を明け渡すはいかにも残念であり、臆病である。何程の大軍で押し寄せてきても義によって一戦し、城を枕に討死して後世に名を残すのが本望である。しかしながら若者たちは主君の先途を見届け、かつ父祖の跡を継ぐことが大切である。急いで主君の後を追い、主君を守護するようにせよ。・・・・・・】とある。
小代には朝倉高清伝説がある。元暦元年(寿永3年・1184年)、一の谷の戦いに敗れた平家側の朝倉高清は、小代谷実山内倉洞窟に隠れ住み、やがて源頼朝に許され但馬旧領地を安堵され、後の越前朝倉氏の祖となったという。朝倉高清依頼の不屈の精神が受け継がれていたのだろうか。はたまた、大屋蔵垣合戦で高虎に敗れた小代兵士達への弔い合戦だったか。
城山城は矢田川と久須部川に囲まれた急峻な山に、主郭部から四方に延びた尾根にそれぞれ砦を構えた難攻の城と想像できる。城主なき城で、援軍も望めぬまま討死覚悟で戦う地元郷士に高虎軍は苦戦を強いられたが、鉄砲隊を駆使して城山城を攻落した。降伏した郷士達は許され織田方に仕えた者、帰農した者等多数いた。郷士達の死の勇猛さが勝利者の心を動かしたのだろうか。高虎は城山城を落とすことにより七美・二方の2郡を征圧したことになり、但馬制圧の総仕上げをしたこととなった。。城山城戦には定説があるが時間的な疑問がある。大屋における蔵垣合戦と城山城戦の戦闘の事象が混在して伝え残ったものではないだろうか。
城山城より小代
小代合戦を仮想再現してみる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
天正8年(1580年)、藤堂高虎を総大将にした七美・二方制圧軍は小代方面にも侵入した。兵数はどうか。但馬の秀長軍が6,400、味方した気多軍兵1,500.気多・美含・出石・城崎郡での戦死者・投降兵を推測すると、秀長軍は8,000〜10,000人になっていたのだろうか。陣立てはどうか。出石城に本隊4,000人、城崎方面へ500人、竹野・香住からの七美郡への掃討軍が2,000人、七美・二方郡征圧本隊が3,000人、内、
二方郡へ宮部善祥坊の兵700、但馬最後の戦いの城山城攻撃に1000、周辺配置に1300、はどうだろう。城山城に100名程の地元郷士達が篭城しているとの情報のもと城攻めにかかった。まず、小代勢の潜みを警戒して寺社・民家を焼き払って陣を敷いた。城山城を甘く見ていた藤堂軍は300の兵で北砦と東砦に攻撃を仕掛けた。静まり返った砦近くまで寄せた時だった。ときの声とともに大石・大木が急斜面を転がり落ちてきて小代勢の猛攻が始まった。寺社・民家を焼き払われる様子を歯軋りしながら見ていた城兵の勢いはすさまじく、援護の鉄砲隊も大石・大木と共に落ちてくる味方の兵になすべもなく慌てふためいて敗走する藤堂軍に城を打って出た。山を下り、田で畑で戦闘が続いた。あちこちで藤堂軍の兵が討たれた。天福寺を焼かれた住職法念坊も、農民も、この時ぞとばかり戦いに加わり、広井坂辺りまで戦域は広がった。藤堂軍は壊滅状態だった。陣屋でこの報告を受けた高虎は思わず槍に手をかけようとして止めた。高虎は総大将だ。小代勢は城へと戻った。藤堂軍陣屋で軍議がもたれた。要害の城の様子もわかり戦術が練ら
れた。北砦と東砦に向けて鉄砲隊を配置して、昼夜を問わずの見せかけの攻撃で城兵の疲れを待ち総攻撃をかける策だ。
城が落ちたのは夜だった。城兵が疲れ果て寝入った頃抵抗する力もなくあっけなく落ちた。岡 弘氏著「小代風土記」の大屋横行砦の記述に、【昼間の激闘でグッスリ寝込んでいた小代勢が、突如あがったときの声に、驚き騒いでいるところを・・・・・・まことにあっけない幕切れであった】、とある。蔵垣合戦が大屋の小代勢との最後の戦いと考察しているため、横行砦と城山城と入れ替えて推理した。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
天正9年(1581年)第2次鳥取攻めに小代一揆鎮圧の話があるが、第1次ではなく第2次の征圧時を考えるとこの「小代一揆」は疑問に思える。但馬制圧後の2度目の鳥取城攻めで秀長軍の通過後に、秀吉軍の小代一揆鎮圧記録だ。この一揆は、鳥取城攻めを遅らすために過去の小代の戦を利用した吉川経家の戦略ではないだろうか。20〜30名の毛利兵が山中でゲリラ戦を仕掛ける。後方かく乱戦術だ。秀吉軍の土地勘のない杉原次右衛門が鎮圧に向う。そこが果たして小代谷だったのか。羽柴軍を攻撃して山中に、あるいは武器を隠して地元民に紛れ込む。戦果の上がらない報告に業を煮やした秀吉が村落ごと地元民を焼き殺す指示を出したかもしれない。毛利兵にとって騒動が大ききければ大きいほど効果が出る。火付け・強盗、かなり荒っぽいこともあっただろう。小代がんどう(強盗)の伝説はここから生まれたのではないか。小代攻防戦の郷士と、強盗(がんどう)が甚だ結びにくい。大屋の小代勢を小代がんどう、としているのも、後の世につけられたものではないだろうか。一次資料とされる、秀吉が若桜鬼が城に在番していた八木豊信に宛てた書状には、小代一揆を鎮圧するために、赤松広通・神子田正治・木下重堅・蜂須賀正勝を6月27日に派遣すると記されていたとある。一方、石見吉川家の文書では、小代一揆を鎮圧に向かったのは杉原次右衛門で、蜂須賀正勝等の先遣隊は6月29日に因幡の私部城に着陣とある。秀吉の書状は何を意味するのだろう。書状を露見させることで、私部城の着陣を安易し、小代一揆鎮圧に兵力を分散しているように見せたかったのだろうか。
「鳥取県史ブックレット@ 「織田VS毛利」には、吉川経家は重富新五郎に宛てた5月29日の書状で【たとえ秀吉軍が7月に攻めてきても、因幡滞在は十月までであろう。十一月以降は大雪に見舞われるからである。そのため三〜四ヶ月の包囲が限度であろう・・・】と述べている。篭城用の兵糧を考えると、少しでも鳥取城攻撃の時期を遅らせかった筈である。結果的には篭城のための吉川元春から来るはずの兵糧は届かず、吉川経家は切腹して果てる。10月25日だった。
小代 城山城跡
南砦まで道路があり、遊歩道が主郭部まである
主郭部
天正8年(1580年
)、秀長、3年ががりの但馬8郡(朝来・養父・出石・気多・城崎・美含・七美・二方)の平定となった。功績により秀長は但馬7郡(105,000石)、高虎は3,300石となる。秀長の家来衆には秀吉からの付将・武将が多く (猛将前野長康は、秀吉が戦に不慣れな秀長のためにつけたものか)、高虎は数少ない秀長直属の重臣として活躍していく。
天正12年(1584年)
、紀州での働きにより1万石となる。
天正15年(1587年)、九州征圧戦の功により紀州粉河で2万石となり猿岡城を築城。城持ち大名となり大屋より藤堂家一族を呼び寄せ領地を治める。天正13年に秀長が紀伊・和泉の国64万石の領主となった時点で、大屋から移住したとの説があるが、和歌山城築城・戦後処理等の理由とする。又、公室年譜禄に、九州の戦役の功で【・・本知合テ2万石ニ成玉フ。此年、白雲君但馬国養父郡大屋村ヨリ紀州粉川ニ移リ玉フ 、又公ノ北ノ方一色氏モ粉河ヘ招キ玉フ・・・】と記述されている。但馬衆の軍団も高虎と共に粉河へ移住したが、栃尾祐善は加保に残った。後祐善の子孫、栃尾善寅が藤堂家に仕官している。【最初は禄100石を賜ひしが、累進して京都の留守居となり、古市の代官に転じ禄を加えて600石に至り、89歳で没せりという・・・】栃尾易三墓誌。元禄の初めという。藤堂高久の時代だろうか。太平の世の中、武士を、家臣を減らしたい時代であったろう。そのような時栃尾善寅は藤堂家を訪ね召抱えられた。恩義に厚い藤堂家の家風がうかがい知れる。
猿岡城跡
粉河では豊臣秀長の家老として仕え、秀長が死去したあと養子の秀保に仕え、秀保が幼少のため代理で朝鮮役にも出陣した.。.帰国してまもなく秀保が十津川で変死した。秀吉・淀・石田三成の豊臣秀頼擁護のため、関白豊臣秀次と共に粛清されたという説がある。墨俣城時代からの家来、前野長康(武功夜話の著者)も秀次を擁護したとされ切腹を命じられた。本能寺で難を逃れ姫路城に身を寄せた織田信長は、秀吉によって暗殺されたとの説もある。あるはずの信長の死体を見つけることが出来なかった明智光秀。万を数える明智軍がである。そこからだろうか。戦国の世、それなりの地位に登りつめた秀吉にとって織田信長は、目の上のコブであったろう。秀吉にとって、本能寺の変を知ってしまった以上、今さら信長が生きていては困るはずだ。「武功夜話」には、備中・高松城から撤退の折、本隊より先んじて秘密裏に姫路城に帰着した記載がある。
狡猾・卑劣な秀吉から秀保を守ることができず、慙愧の念に包まれた高虎は家督を高吉(養子)に譲り、武士を捨て出家して高野山に上がった。後、藤堂家の安泰のため秀吉に逆らえず召還され還俗しているが、心中はいかがであったろう。
高野山の下山後、秀吉から宇和島7万石を与えられ築城を命じられている。徳川家康が高虎に接近するのを嫌った秀吉の策だろうか。秀吉の死後、徳川家康に仕え譜代大名と同様の厚遇を受け、以後藤堂家は明治を迎えている。高虎は6尺2寸(190センチ)の大男とされる。希有の武将として戦場を駆け巡り、一生の転機として秀長に出合い、心身共に秀長に仕え、秀長と共に出世して城持ちの大名になった。秀長の死後、秀保を助け、秀長への恩に報いるべき時秀保が死去し、紀州豊臣家が断絶した。人生50年といわれた戦国の時代、高虎21才〜40才の人生の大半を秀長に仕えた。秀長の死後、高虎の心に何が残ったのだろう。ぽっかりと空いた心の中で、徳川家康に秀長の姿を見たのだろうか。
羽柴秀長但馬制圧軍
羽柴秀長軍第
1次但馬制圧(3千2百人) 天正5年(
1577年)
前野将右衛門尉(長康) 神戸田半左衛門 加藤作内
宮部善祥坊(継潤) 宮田喜八郎(光次)
青木勘兵衛尉(一矩)
堀尾茂助(吉晴) 藤堂与右衛門(高虎) 木村常陸介(重茲)
生駒勘助(親正)
朝来郡・養父郡の2郡を制圧
羽柴秀長軍第
2次但馬制圧(6千4百人) 天正8年(1580年)
前野将右衛門尉(長康) 別所孫右衛門(元別所家人)
宮部善祥坊(継潤) 青木勘兵衛尉(一矩)
堀尾茂助(吉晴 ) 藤堂与右衛門(高虎)
加藤作内 山内猪右衛門(一豊)
出石・気多・美含・城崎・七美・二方郡を制圧
藤堂屋敷
天正8年(1580年)秀長により但馬が平定され、七美・二方2郡を制圧した高虎は報償として3,300石となり、
翌天正9年妻久芳をめとり、両親(一族)を大屋に迎えている。家族を加えその数250人位馬5〜6頭はいただろう。慶安2年(1649年)の徳川幕府軍役規定によれば3,000石で56人(騎士2・侍8・槍持等46)の出役とされている。財力があれば兵を雇う戦国の時代その3倍と推測とした。そうであれば、秀長の重臣として当然それなりの館を構えたと思われる。しかし、残念ながら大屋に残る館跡・資料・伝承はまだ見つかっていない。高虎はどこに城や館を構えたのだろう。推測されている地は幾つかある。夏梅・加保・山路・大杉だ。
当時の敵は中国の毛利氏。秀長は出石城に城代を置き、播磨と連絡の取りやすい竹田城に居城したと推測する。竹田城を扇の要に但馬の要衝に出石城(天正7年、吉川元春は美含郡の垣屋豊続の援軍として竹野まで侵攻している)を、山陰道の押さえに八木城・尾崎天王山城・尾崎尼ヶ城を、若桜道からの侵攻に大屋の城を配置する、但馬平定後の対毛利氏の陣容としてどうだろう。推測から推測に進むが、そうなると、大屋の城は八木城に匹敵する堅固な城が必要となる。毛利軍の攻撃に織田軍の援軍が来るまで持ちこたえることのできる城である。
当時毛利氏は京に上る道として、山陽道・山陰道・海上の3ルートを模索していた。合戦が山陰道とすれば、国境の関宮平地が主戦場になり、八木城が前線の城となる。この時毛利勢に大屋を突破されると、織田軍は大屋越えにより横から攻撃されるこになる。毛利軍も大屋の城が健全であれば横からの攻撃にさらされる危険がある。両軍にとって大屋の城は重要な軍事処点となる。
大屋から峠越えで山陰道に出る道は4本ある。筏〜出合の道、加保〜相地の道、宮垣〜八木の道、そして地元民のみ知る大杉〜吉井の山道だ。大杉地区と吉井地区との境に黒山湿原がある。牛の餌としての草が豊富にあり、両地区の草刈場として又、炭焼きの場として諍いもあった。平成18年の明治以来の全国地籍調査より境界が決定した。
黒山湿原
前述に戻るが大屋の山城跡は幾つかある。夏梅区に栃尾城がある。ふもとには、赤堂観音で知られる蓮華寺もあり、その石垣は天正初期の穴太積みといい二段になっている。栃尾城との斜面にもその石垣がある。3300石になった高虎が、藤堂村から新たな兵士と共に石工の穴太衆を呼び寄せ、城を築こうとしたものだろうかか。しかし、敵は西方面だ。若杉峠・天滝越えで来る。見張りがきかない。栃尾祐善の後方に位置する場所に城や屋敷を建てるだろうか。加保城を栃尾祐善と共有することも考えにくい。現在の山路寺とする説もあるが、山路寺の記録として「永承2年(1047年)に開創、大屋谷に8ヵ寺の末庵を領有し、中本寺の寺各を許されていた」とある。衰退の時期が有ったとされるが、高虎に関する記載はない。
蓮華寺 石積み
その中で目を引くのが大杉城だ。「・・・南北朝時代は蔵垣に政所を置き城主の居・執務所となり、大屋の庄を統治していた。「城は南北朝時代に尾根筋に構築された曲輪を帯曲輪群で改修し、さらに戦国時代に堀切・竪堀や土塁で改修したものである。・・・・・山頂に詰城を持ち、山下の城を何重にも帯曲輪群が取り巻く縄張をもつ大杉城は、大屋の城の中では異質である・・・・二重の堀切、竪堀、詰城、帯曲輪群の卓越などを勘案すると、かなり防御性の高い城郭である・・・」大屋町史通史編より。
大杉高城からは毛利領へと続く間道も展望できる。高虎も見たであろう、天守閣・本丸・二の丸からなる近代の城郭の安土城。高城は天守・本丸は大杉城・二の丸は丸部城そして城門が大福寺。館の位置として、今も石垣が残る庄屋跡がある。庄屋跡地の前には水量豊富な大屋川、後ろは急峻な山、西側の奥山川の石垣は3mの高さがあり、東側は岡谷川が流れる。城をも思わす武将の館となる。ここを見た高虎はどう構想したか。庄屋跡地の隣りには、屋号が加保屋の栃尾医院があった。加保から来たので加保屋だ(現在は木彫展示館になっている)。加保屋の持ち山に観音堂がある。庄屋跡地から歩いて10分程の小高いところだ。大福寺にも観音さんが祀ってあるので、ここは下観音と呼ばれている。大杉に嫁いできた婦人たちの舅・姑から開放された憩いの場、やすらぎの場であった(〜昭和30年代)。100軒程の大杉で、なぜか二か所観音さんが祀られている。もともとこの観音堂は庄屋跡地の裏山にあったが移転されたとの話がある。久芳夫人が転戦する高虎の武運と、子宝を祈念するために建てた観音堂とは推測できないだろうか。
高虎の正室久芳夫人は香住の中野村時代より観音信仰であったとされる記述が公室年譜略にある。中野村の隣に小原区がある。そこには千株の桔梗の花に飾られた遍照寺があり、十一面観世音菩薩が祭られている。久芳が信仰していた観音さまだったのだろうか。祀ってあるのは両寺とも十一面観世音菩薩だ。
香美町小原 遍照寺 十一面観世音菩薩(桔梗観音)堂
今も残る庄屋跡地、慶安元年(1648年)徳川家光の時代、三方郷宮垣から正垣与惣右衛門が、大杉村の五郎右衛門・二郎右衛門から地株を買い取り入村している(正垣家文書)。この地を造成し屋敷を新に建てたとしたら疑問が残る。昭和20年9月22日の台風により、大屋川が氾濫し庄屋屋敷跡の前の民家・大杉橋・対岸にあった公民館が流失している。奥山川の氾濫もある危険な場所だ。昭和58年奥山川右岸の民家は安住を求め移転した。平成21年の豪雨では両岸の石垣が崩れ修復され、翌22年には上流の山肌ガ崩落して、平成23年から土石流対策として10 ヵ所の砂防ダムの建設が始まった。
徳川幕府となり世の中も安定してきた時代、このような危険な場所をわざわざ造成して、庄屋屋敷を建てたと考えるより、由緒ある屋敷跡を利用したと考えるべきはないか。加保区のはずれにある一色家の話では妙に大杉に親戚が多いいという。大福寺の近くにある妙見堂の仏事は、加保の法華寺の住職が務めている。法華寺は後述するが伊賀上野にある上行寺と同じ日蓮宗だ。高虎は銃将として鉄砲隊を指揮していた。未使用の鉄砲玉の一つでも見つかればいいのだが。庄屋跡地を一度調査してみたいものだ。
左端が奥山川 庄屋跡地(正面)と木彫館(右側)
木彫館と庄屋跡地との境の石垣( 左 庄屋跡地 右 木彫館より )
庄屋跡地側の石垣 木彫館側の石垣
幅80センチ程 庄屋跡地の別の場所の石垣に、試弾の痕?
宇和島城の石垣にも
奥山川を挟んだ隣にある石垣
観音堂跡?( 庄屋屋敷跡の裏山) ただの石だろうか
電子国土ポータルより
久芳夫人
藤堂高虎の正室。元丹後国主一色修理太夫の娘とされている。当時は丹後を追われて美含郡中野村に住んでいて、栃尾加賀守源左衛門祐善の媒酌で祝言を挙げている。高虎との間には子が出来なかった。慶長4年(1599年)、香住の林甫城主長越前守連久の娘(まつ・松壽院)を、側室として高虎に勧めた。まつは二代目藩主となる高次の生母となる。大屋に一色姓が2軒あるが、資料等は残っていない。天正9年(1581年)から天正15年の間、各地を転戦する高虎の留守を守り大屋の地で過ごしていた。その間、義母(盛?)の死(天正11年)にも立会って、その墓は栃尾家の墓所の近くにあったとされる伝承があるが定かではない。加保区の法華寺に栃尾家の墓があるが藤堂家のものはない。
同じ日蓮宗の伊賀上野の上行寺には高虎の父虎高(白雲侯)とおかめ(継室)のお墓があるが、盛?の墓標はない。上行寺は高虎が2万石で初の城持大名となった紀州粉河で、藤堂家の菩提寺として建立し、高虎転封に伴い愛媛・今治を経て伊賀上野に移築されている。当時は埋葬地に墓標は立てないというが、久芳が看取った盛?の墓標はどこにあるのだろうか。虎高は再婚している。粉河に移封の時、継室おかめを気遣い盛?の石碑は屋敷に残したのだろうか。大屋のどこかで眠っているのだろうか。他に考えられるとしたら、父虎高とは離縁して藤堂村に残って大屋には来ていないのではないか。藤堂藩の墓石群に、盛?の墓がない理由になるのだが。
上行寺 虎高とおかめの墓標
栃尾家所蔵の「栃尾家過去帳高虎公御婚礼文書」によると、高虎は栃尾館に2年寄宿している。天正6年〜7年の間だろう。天正6年に秀吉から直接380石を知行されているところから、その後館を構えたと思われる。藤堂家一族・家来衆の家族の要として高虎の留守の間を護り、大屋のどこでどのような暮らしぶりだったのだろう。各種の資料を探してもまだ答えは出ていない。観音堂のみが想像できる唯一の手がかりだ。
高虎と久芳の出会いを推理してみる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
高虎が但馬に来て5年、26歳になる。朝来・養父郡内にもそれなりの女性もいただろうし、話もあったであろう。合戦の合間の婚儀は珍しくもない時代のはずだ。年齢も十分すぎる。しかし、独身を貫き北但馬の戦となった。その頃、一色家は七美郡境の香住の山里中野村に住んでいた。出石城から残敵討伐で竹野・香住へ、香住から矢田川沿いに、山陰道の高虎軍との合流を目指して南下進軍していく秀長軍に押されるように、一色家は七美郡の高虎の支配地区におされていたとしたら。難民の中で、供の者に守られた気品溢れる久芳を高虎が見初めたとすると、そばにいた栃尾祐善が結びつけるだろう。毛利氏支配地に住んでいた久芳との出会いとしてどうだろう。戦場の恋ローマンスだ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【歴史散歩】
藤堂高虎公の足跡(4) 四天王寺と久芳夫人
バス みえ交通バス「塔世橋」徒歩2分
車 伊勢自動車道津ICから車で15分
観音寺のほかに、高虎にゆかりの寺院として挙げられるのが四天王寺である。参宮街道沿いの栄町に門を構えるこの寺の歴史は古く、創建は奈良時代以前にさかのぼる。これまで、幾度となく戦火に焼かれ衰退と再興を繰り返す歴史の中で、江戸時代にその復興に尽力したのは高虎だった。これは、高虎正室であった久芳夫人との関わりが深い。久芳夫人は、但馬国(現在の兵庫県北部)一色修理太夫の娘で、天正9年(1581)に高虎と結婚している。二人は子宝に恵まれず、夫人は高虎に側室を迎えるよう勧めるが、当初高虎はこれを承知せず、養子である丹羽長秀の子高吉に家督を継がせる予定であった。後年ようやく松寿夫人を迎え実子高次(2代藩主)の誕生となるが、久芳夫人への誠実な心配りは変わらなかった。津に入ってから後も、高虎は幕府の命令で各地の城の修築(天下普請)に携わった。元和2年(1616年)に家康が亡くなり、その廟所となる日光東照宮造営のころに、久芳夫人は津城で亡くなった。
これを悲しんだ高虎は、四天王寺に墓所を設け、津城内で夫人が生活していた書院建物を寺に移築するなどして弔っている。その後に寺にあてた高虎の書状には供養の礼などが記され、四天王寺への寄進の内容も知ることができる。久芳夫人のひととなりを伝える逸話は残らないが、切れ長の目元に柔らかな表情を浮かべる肖像画を見ると、高虎を支えた穏やかさと力強さがうかがえる。
三重県津市 『広報 津 』 平成20年8月号第63号より
津市 四天王寺
久芳夫人のお墓。新しい生花が供えられていた
四天王寺から少し離れた寒松院には藤堂家の歴代藩主が祀られている。そこには高虎と松寿夫人の大きな墓石が中央に並んでいる。久芳夫人の墓はない。2代目藩主藤堂高次(松寿夫人の子)の人間臭さがうかがわれる。
寒松院の高虎の墓石(左) 松寿夫人の墓石(右)。新しい生花が供えられていた
明延鉱山
「天平勝宝4年(752年)に開眼供養の儀式が行われた奈良東大寺大仏の鋳造にも明延産銅が使用されたといわれている。しかし九世紀初頭から産出量が減少し、次第にさびれていったようである。明延鉱山が往事の賑わいを取り戻すのは十六世紀中頃以降のことで、今度は銀鉱脈の発見であった。明延の両松寺に伝えられる半鐘は文禄5年(1596年)に妙見堂に奉納されたもので、明延産出の銀・銅で鋳造され、「明延銀山」の銘が刻まれている。・・・・・」大屋町史資料編より抜粋
これを見ると、明延鉱山が復活したのは推定1550年以降になる。1569年、木下藤吉郎が加保の白岩氏を通じ閉山状態の明延鉱山を調査していたらとしたら、そして何かをつかみ、秀吉が秀長に、そして藤堂高虎が大屋の庄に来たと推測できる。木下藤吉郎が第一次但馬侵攻(1569年)後に明延銀山として復活した事になる。
昭和62年(1987年)、円高と金属価格の下落により、地下に多くの鉱脈を残しながら閉山
明延〜神子畑間を走った一円電車
大杉城
大杉城の城史・城主は不明いです。各地にあるように村を守る山城ではないかと思われます。
それが南北朝時代の戦いの中、中村地区にあった三方城(戦国期に宮垣地区に築城)の、西の守り
として利用されたとようです。
1354年、南朝方の伯耆の山名時氏が足利直冬を擁して京都への進路にあたる但馬にでの攻防です。
三方城には幕府方石塔頼房配下の湯浅次郎左エ門尉等が立て籠っていたが南朝方の播磨守護の赤松
則祐の配下安積盛兼に落とされている。その4年後1358年、幕府方伊達朝綱・八木谷治左ヱ門・木内
七郎兵衛尉と共に、三方城戦の後ろ攻めとして大杉城を攻め落としている。三方城戦が主戦場で大杉城
戦は重要ではなかったようです。
しかしその後戦国時代に入ると、大杉城は堀切・竪堀・土塁が改修され高城・丸部城が築城されています。
大屋川の対岸には蔵垣城も築かれています。誰が何を目的として大杉城を強化したのか。大屋に陣営した
藤堂高虎が対毛利氏の西の護りとして築城したのでしょうか。高城跡の山名は高城と親しまれています。
高虎の城→高城になった可能性もあります。城郭構造から考えると、大杉城の東下の大福寺境内に城主
居館が想定されるとのことです。大福寺境内には水源がありません。伝承・痕跡も見つかりません。館はや
はり大福寺境内を少し下った庄屋跡地でしょうか。
残念ながら大杉城3ヵ城には石垣はありません。大杉城・高城の急斜面は石垣同等の防壁を果たしていた
と思えます。又、高城からは大屋平原はもちろん西部方面、毛利氏領若桜道からの間道が通る、筏・中間
地区、若杉峠の山並みが展望できます。大杉城・丸部城・高城が劣勢になれば、一の段に引いて敵を討つ
備えがあります。一の段(標高764m)には、自然か人工かは判りませんが3段の層になっています。下か
ら登る登山者には頂上が3回あることになります。頂上は平坦なところがあり緩やかな尾根に続いています。
さらにその後の黒山の稜線には、氷ノ山からの地下水脈があるのでしょうか、湿地帯が点在し夏でも枯れ
ることはありません。一の段の山全体が城なのです。大杉城は実に懐の深い山城です。
登山道はありませんが比較的明るい尾根を登るルートです。
ところどころに赤色の目印をつけています。大杉城跡・高城跡・丸部城跡・
一の段頂上には標識を設置しています。かなり急勾配のコースです。樹木の
ため展望はさほど良くはありませんが、一の段頂上からは氷ノ山も展望でき
ます。コースタイムは参考です。
(大屋山遊会)
シロモチくん (津市キャラクター)
参考資料
大屋町史 武功夜話
近世の加保村(才下正義著) 高山公實録
美方町史 公室年譜録
浜坂町史 信長公記
出石町史 ウエブ上の資料
八鹿町史 鳥取県立公文書館県史編さん室
養父町史 (ブックレット@・C)
関宮町史
村岡町史
香住町史
和田山町史
小代風土記(岡 弘著)
内倉洞窟峰山観音(井上 孝著)
但馬史
但馬史研究会報
但馬の中世史(宿南 保著)
馬場家の由来(馬場 知)
ご意見等ありましたら
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